ヨーナブログ

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だからこそ情熱的でありたい

なぜか情熱がない。なんでだろう。音楽でも聞いたら情熱が出るかな。情熱ってドーパミンがかな。確かドーパミンの出し方は音楽と運動とカフェインとかだったな。でも運動は面倒だからやりたくないな。腕立てぐらいならできるか。

 

なんかもう、もうちょっと成功を強く望みたい、アニメの主人公みたいにここぞとばかりの力を発揮したい。しかしそうはいかない大きすぎる目標はやる気を著しく削いでしまう。なぜやる気を削がれてしまうのだろうか。やっても無駄だという理性が働いてしまうのかもしれない。自分の場合はよくわからない、とにかく何もやらない自分に腹を立てていた。その点で乗り越えられないストレスが原因かもしれない。

 

これは仮説だが原始時代のクマやライオンなどの絶対に勝てないと思う相手と対峙した時のなごりかもしれない。そう考えたらやっても無駄なのはあながち間違いじゃないと思われる。でも男なら引けない戦いがそこにあると思う。そういういざという時、原始人は何を秤に掛けていたのだろう。一つに家族を守るためはあるだろう。もう一つは圧倒的な飢もあるだろう。あとは文字通り背水の陣が考えられる。

 

その三つを踏まえ情熱の出し方を考えてみる。ああダメだ、どの場合も逃げ道がある、よりいいと思われる道があって情熱を発揮できない。一歩話を戻そう。

 

原始人は命の危機を感じていたと仮説して、現代人は何を感じるのだろうか。居場所がないとかお金を稼げないとかを感じるだろうと思う。つまり命も居場所もお金もいらないと思えたとき人は非合理的な行動ができるのかもしれない。もはやその無鉄砲さこそ情熱かもしれない。

 

情熱的であるメリットは挑戦することにスリルがあって楽しい、クソみたいなつまらない人生に絶望と希望を提供してくれる、もしうまくいったら理想になれる、がある。敗色濃いからこそ情熱でありその分絶望すること請け合いである。

 

逆にデメリットはかなりの確率で失敗する、無駄にリスクを取る、かなりの確率でやる気がなくなる、歳ととるにつれて社会が情熱を排斥する、がある。多分ほとんどの人が通らない道である。むしろ道がないまでありうる。

 

情熱的人生の失敗に失敗を重ねた世界線を考える。家族に軽蔑され家を追い出される。ホームレスになりながら思考したり、土に文字を書く。そして餓死したりするかもしれない。もちろん誰からも愛されない。スマホがなく音楽を聞けなくなる、寒くて暑い、存在自体が迷惑になる。