ヨーナブログ

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ありのままより理想の自分の方が楽かもしれない件

心理学では生まれた時、子供は一人では生きていけないので愛される術を学ぶらしい。それは愛着になり、不安型、回避型、安定型などに分類されると考えられる。不安も回避も親の愛情不足が招くと考えられるから子供を作る時は愛情もって不安にさせたり気を使わせたりしないよう心がけたい。まぁ自分の人生に子供を作る余裕などないが、、、。

 

愛着の型は時が進むに連れて変わるのでまぁ安心してもらって大丈夫。どう変わるか分からないが愛されたい対象が変わることにより愛される術を変わるのかもしれない。もしくは愛される必要がなくなりありのままの愛情表現をするようになり変わるのかもしれない。

 

つまり僕が言いたいのは子供の頃の自分はありのままの自分ではないのでは?、という問題提起である。親に頼り親に愛される必要がある間は本当の自分ではなく親に愛されやすい自分かもしれない。

 

そこで本当の自分になるために親に愛されやすい自分の完全に消す方法を考えていきたい。まずはなぜ本当の自分になりたいかは、それは親に頼っている罪悪感が親に愛されないといけないという安易な答えをだすのを防ぎそしておやに見限られた時、合理的に清々しい思いで自立できるようにするためである。

 

本当の自分とは、博愛主義である、誰も傷つけたくなく、故に誰とも接したくない。そして他人を害する人を忌避してしまう。しかしお金を稼がないといけないからお金を稼ぎうる行動をしている。知るうる限りで合理的で非合理的な行動はあまりしない。

 

つまり本当の自分とは、適度に感謝しつつ、他者を害してたり害されたら忌避しつつ、合理的に利益を享受する。今との違いはもう少し忌避するという利益より感情を優先する態度。

 

そもそも博愛主義が合理的でない。すべての人を愛するのは不可能である、責任も配慮も尊敬もできるはずがない。自分にすらできないのに。なので目指すは本当の自分てはなく、個人を愛せる理想の自分である。

 

故に理想の自分と親に愛されやすい自分との違いは、博愛主義か個人愛かである。

 

どうしたら博愛主義から個人愛主義になれるだろうか。それはすべての場面で最低限の道徳で愛すべき人を優先する。

 

今回の思考でありのままが合理的ではないということがわかった。ありのままは楽な自分ではなく過去の経験などによって形成された受動的な心の反応であると思われる。よって我々はありのままを脱してより合理的な自分を形成していくべきであると思われる。