ヨーナブログ

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価値も自信もなければやめてしまえばいいんじゃね

自信がないと何も出来なくなることがある。それは当然のことで出来ないのにやっても仕方ないのである。まさに徒労で終わること請け合いである。しかし我々の脳みそは完璧ではない、長期的に考えて自信があることでも短期的に考えて自信がなくなることがある。 どうしたら自信を持ち続けることができるだろうか。今は価値がなくて自信がないことでも、続ければ価値が生まれ自信が付くこともあるだろう。 自信を持ち続ける方法は現実的なほど簡単な期待を作ることだ。ゲームがその例で、ある程度慣れたり多少の時間を有する代わりに達成感を味うことができる。そして依存するわけだ。 なので簡単な期待が自信をも持ち続け、何かを成し遂げる方法だと考える。簡単な期待に注目して何らかの行動をする場合期待が叶う頻度によりやる気が決まると思う。 期待が叶う瞬間とは自分に価値があると思うことであり、それはすなわち幸福である。誰かの役にたったり、強くなって自慢できると思ったときなどに自分の価値を実感できる。 逆に誰かに迷惑をかけたり、思うように強くなれなかったりすると、自分の価値のなさを実感して不幸になる。 なので何かをするには価値のなさをあまり実感ぜず、できるだけ大きな価値を実感できるようにする必要がある。その点で目標設定は行動にとても大きな影響を与えると思われる。 そして目標の明確化も重要だと思われる。FPSゲームとかは戦いに勝つというとてもシンプルでわかるやすい目標なので忘れることはまずない。 それと違ってリアルではシンプルな目標はなかなかな難度が高く逆に価値のなさを感じてしまうことになってしまう。しかしシンブルで簡単な期待でないと忘れてしまう。そして注目できなくなり、作業に意味がなくなり苦痛だけになりいずれ自信を失い行動しなくなる。 価値がなくてもやりたいからやる。その目的がなんであれその動機を尊重できる自由な心がこの現代では必要かもしれない。 狩猟採集民の心を受けつず我々は心身ともに現代の社会に適応できていない。人生を豊かにするためにも自由な選択を選べる勇気が必要かもしれない。 私には冒険が必要だ。自由が必要で、リスクは怖いが背負うだけの意義が私にはある。勇者アバロンはそう決意を決めた。私は狩猟採集民と同じく1日15キロ歩きたくさんの冒険をしよう。 たとえそれが価値のないことであれ挑戦したいとう感情を尊重して、朽ち果てよう。価値に囚われずやりたいことをやろう。

価値なし判定から逃げない合理性の獲得が急務である

この人間社会は価値により、需要の有無を判定していらないなら切り捨てる社会である。それは感情で言うところの不安で不幸な状況に陥るのだ。だが心配することはない、宇宙規模で考えれば人の生死にすら価値を作らない。皆が皆だだ宇宙に存在しているだけ。心配して嫌な気分になる必要はこの宇宙にはない。

 

衣食住に困ったことはないが困った時僕は何をするだろうか。働くだろうか。働かないだろうか。不幸で頭がいっぱいになってしまうだろうか。命の危機に陥ったとき僕は何をするだろうか。不幸で頭がいっぱいになるだろうか。不安に囚われるだろうか。経験してみなければわからない。

 

人は価値がないという評価を過度に嫌い、不合理な行動をとってしまう生なき物だと思う。価値がないから自分を改造したり、価値がないから何もしなかったり。そのような原始的な感情任せな不合理な行動は長期的には僕らを不幸にするだろう。

 

原始的な感情、価値があれば幸福、価値がなければ不幸、を克服して、お金の稼ぎ方や人並みの人間関係を作る合理的な努力をするべきだと思う。価値に囚われた瞬間に目先の価値を求めたり逃げたりする不合理な努力に変わってしまうと思う。それら不合理の安心は根本的な問題を解決しにくいだろう。

 

どうしたら合理的でいられるだろうか。それは決定木を使うのが有効だと思われる。

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決定木の作る方はまず行動を決め、その行動で得れる効用とその効用を得れる可能性を推測で書くのだ。そのように行動を決めれば感情に流せれて行動をやめてしまうことも少なくなると思われる。そして僕はブログを書くという結論を得た。安直だがその場その場頭で決めるよりは合理的だと思う。継続は力なり、もう感情に流されるのは懲り懲りだ。

 

感情に打ち勝つために

打ち勝つには価値のない自分自身を許すことだと思う。人には自己批判という機能が備わっている。無防備だと四六時中自己批判をするのだ。そう考えると哀れで滑稽だ。世界にひとつしかない大切な存在を許そう。遍く宇宙には価値なんか関係ないんだと励まそう。

 

許した時に本当の自分になれると思う。無理して自分を飾ったり価値がない評価から逃げたりせず、価値のない自分を許し、価値評価から自由になれたときに無邪気な僕らになれると思う。

 

え、無邪気でいられるのは子供だけだって?。そんなことはないと思う。合理的に行動できれば、無邪気に行動できれば、本当に大切なものを獲得することができると信じている。

追い込まれないとやる気が出ない時の対策

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追い込まれないとやる気が出ない。怠惰な1日を過ごさないと勤勉な1日を過ごそうと思えない。きっと動機が不純なんだろう。自分の価値の低下を恐れて行動する節がある。恐れで自分を動かそうだなんて愚かである。

 

なんとか成長に注目して、成長を楽しむことはできないだろうか。具体的になんの能力が向上したのかを考える必要があるだろう。能力が向上していなけれは成長していないのと同じだろう。でもリアルで成長を数値で表すのは難しいだろう。

 

なので経験に伴う得れたであろう知識や慣れや〇〇力が少なからずアップしたと手帳やらに記そう。例えばブログを書いた場合は文章力とか早筆力とか発想力とかが少なからず上昇すると考えられる、読書では知識、読解力、漢字力、速読力などを得れると思う。意外とそのような能力の向上が忘れ去られ労力ばかりに注目してやる気を失ってしまうことが多いように思われる。なので(能力の向上)に注目する習慣を作るべきであり、それには手帳なのに記したりして忘れないような工夫が必要である。

 

それを100日繰り返した暁には、我々は立派な勇者になっているだろう。ぜひ諸君には続けて欲しい。全ての経験をボジティブに捉えられるようになるぐらい最高の勇者になってもらいたい。あらゆる苦しみがこの世界では残酷に降りかかるり、何らかの能力が失われることもあるが、失うことでえれることもあるだろう。大切なのは何に注目するかで変えられない出来事は仕方がない。

 

その行動で何が得れるか、どんな能力が向上するかを考えて自身の成長に前向きになれたときに人はやる気になるのだろう。だからその行動の労力や無意味さに注目することはやる気を削ぐことに繋がるだろう。どんな行動にも短所長所が存在するだろう。総合的に考えてその行動をすると決めた場合はできる限り長所に注目して、価値の向上、モチベーションの維持に勤めるべきであろう。総合的に決めたからには頻繁に精査する必要はないと思う、やはり短所は我々のやる気を削いでしまうからだ。

 

行動の最中具体的には何に注目するべきだろう。1つに目の前の作業に注目すべきであろう。次の作業ではなく目の前の作業に注目することにより作業効率が格段に良くなると思う。

 

2つに目の前の作業で成長できる能力に注目しよう。例えばブログでは書く作業と発想する作業があると思う。発想する作業では文章力は向上しないが発想力は向上するっといった感じである。作業がうまくいかない時は作業を細分化してコツコツと成長するのが有効であると思われる。

 

 

 

価値と幸不幸・一歩踏み出す勇気・経験値とレベルアップ

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価値と幸不幸

僕たちは価値という基準に支配されている。自身に価値があると思えたときに幸福を感じ、ないと思ったときに不幸を感じるように出来ている。多分生まれたときから存在する欲求だろう。どう向きあるのが正解だろうか。

 

ひとまず幸福を求めすぎるのは良くなさそう、なぜなら常に価値があるという評価を求めるからだ。そこには必ず価値がないという評価にぶつかることになるだろう、つまり幸福を求めると不幸になってしまう。でも(何と比べるか)とか(ある評価基準)ではあまり価値がないという結論に行き着くことはなさそうである。

 

過去の自分と比べることが何かを学習することにおいてもっとも幸せになれそう。今まで出来なかったことができるようになるのはとても嬉しいし、すごい人と自分を比較して力不足に注目するのは不幸だ。

 

一歩踏み出す勇気が欲しい

わいはヘタレである。自分の価値基準でうまくいかないと推測して、あらゆることを諦めてきた。その推測は割と正しいのかもしれないが、価値基準なんか集団、個人によりさまざまだろう。価値を求め幸福を求めてきた人にたりないものはなんかあるだろうか

 

それは目前の価値に注目するのではなく、失敗込みの成長という過去と比べて今の価値が向上する(成長に注目)するのが足りないのではないだろうか。何事も経験だからね。

 

どうしたら成長に注目することができるだろうか。経験値をことあるごとに記し、寛容に総合的に評価して毎度毎度成長を実感できるように最大限工夫して、習慣化すれば自然と成長に注目するようになってくれると思う。いやそうなってくれ(願望)

 

この世界はゲームだと考えた方が気が楽になるし、わいはこれを実践しようと思う。2021年の手帳を中二病で埋めるぞっと。

 

経験値とレベルアップについて

ゲームではお馴染みのレベルアップだが、リアルで当てはめるのは割と難しそう。なぜならゲームでは敵を倒したり合成して経験値を獲得する単純な行為だが、リアルでは無限に等しい行為があり迷うしそもそも価値のある行為なのかもわからない。

 

ゲームの主人公の目的はなんだろうか。それはつまり魔王を倒し世界を平和にすること!(それって一部じゃね)

 

では人々の目的はなんだろう。それは楽しく穏やに健やかに暮らすことだと思う。まぁ生きる目的なんて人それぞれだろう。それに生きる目的なんてないという人もいるだろう。こんなことを考えていることが健やかでないのかもしれない。だが目的に応じて成長に注目できればある程度幸せになれるんじゃないでしょうか。

価値と慈悲

価値がない、当たり前のように売り残る、価値との向き合い方を考えてみよう。価値がなければ、勝算もなく、だから挑戦しない。百回に一回ぐらい成功できるのにそれでは準備不足な完璧主義、いざという時の勇気がない。セルフハンディキャップなんて日常茶飯事のように繰り返す。何を恐れているのだろう。

 

価値がある作業でないとフローになれないと思う。自分のためにならないことはやる気が失せる。いや恐れているのではなく無駄なことをしたくないのだ。目的が成功であれば失敗は受け入れられなくなく。つまり注目する先を成功にした場合は失敗する可能性が高い場合にやる気をなくすだろう。

 

なので注目する先を作業にするのが賢明だろう。なかなか注目をコントロールするのは難しいが気づいたら直す癖を付けるのが最良の方法だろう。作業とは具体的に何に注目すればいいだろう、ブログを書く場合は何を書くかに注目したり、読書をする場合は文字をなぞるのに注目するのがいいだろう。現在進行形で過去でも未来でもない一つの作業に注目するのがいいと思う。

 

全ての目的は幸せになるためということと決めて、なんのためにこれをしているのかで迷わないようにしよう。それで幸せになれなれないのならやめてしまえばいいと思う。無価値は残酷なほど僕たちを苦しめるが、慈悲はその苦しみを取り除いてくれるだろう。

 

 

何も考えずその場で判断するのはとても楽で、逆に考えまくって最善の判断をするのはとても疲れる。つまり自分らしさこそ自由であり楽である。そして自分らしさは同調圧力に抗える最大の武器である。アバロンは自分らしく生きる。そしたら同調できない苦からも、同調したくない苦からも開放される。

 

頼ったら不安が消え、許したら怒りが消える。無条件であれば条件に苦しめられる心配もない。アバロンは生きるうえで必要な条件は何もない、あるのは魔物を蹂躙するし根絶するという望みのみ。

 

アバロンは進み続ける。魔物のいない平和な世界を目指して、努力は報われるとは限らないが努力すること自体に喜びを見出せると思う。楽しめれはつつくものだ。

 

アバロンは小石に躓いた、多くの人が見ていてとても恥ずかしくなったので、5歩歩いたらヘッドスライディングする歩き方で群衆の目を釘付けにした。目的地に着いた頃には全身擦り傷だらけになっていたが魔法で直してもらった。

 

まだ何と戦えばいいのかわからない。これまで幾多も魔物と戦ってきたがそれが本当に正しいことなのかわからない。この問題を解決する方法探せばいいのだろうか。

勇者アバロン、上級攻撃魔法炎炎地獄を習得する

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ミノタウルスをぶった斬る、ぶった斬る、尋常ではないタフさだ、「まだ倒れないのか」とこぼす勇者アバロンアバロンは強靭な肉体を持つミノタウルスと対峙していた。ミノタウルスは圧倒的な腕力で棍棒を振り回す魔物である。

 

死闘の末アバロンはミノタウルスを鋭い斬撃で頭をかち割った。何度諦めようと思ったことか、何度逃げてしまおうと思ったことか、満身創痍のアバロンは感傷的になり聖剣にもたれ膝をつく。聖剣ガリガリオンが折れていたら心も折れてしまっていただろう。

 

そこに魔法使いアントムがやってきた。「アバロンよくぞミノタウルスを倒してくれた、褒美をやろう」

 

「アントム殿、ありがたき幸せ」とアバロンを顔をあげ言った。アントムは上級攻撃魔法の炎炎地獄を習得する鍛錬につきあってやるといい、アバロンは大いに喜んだ。

 

それから地獄の特訓が始まった。炎炎地獄とは消えないほのおで敵を燃やし尽くす魔法であるそれを習得するには、ひたすら作り出す炎の練度を上げないといけない。まずはアントムから消えない炎の種火をもらいなれることから始まって、だがこれが厄介で燃え広がってしまい鍛錬どころではないのだ。幸い消えない炎は術者によって消すことができるがやけどは免れなかった。

 

全身火傷をおったアバロンはヒリヒリする体に鞭打ち、上級魔法炎炎地獄の習得に闘志をもやした。そしてアバロンがやっと消えない炎を宿すことに成功した。

 

「やりおったの。アバロン」とアントムはご満悦であった。

 

あとは攻撃魔法火炎弾と同じ容量で増幅して飛ばすだけだったので難なく習得できた。上級攻撃魔法炎炎地獄を習得しアバロンは折れかかった闘志に火がついた。そしてアントムに別れをつげ更なる冒険に旅立った。

 

アントムは瀕死の重傷を負っている。今にも倒れてしましそうな体をなんとか立たせている状態だ。今倒れたら確実にやられる。アバロンは4体の巨人に囲まれている。棍棒が雨のように降りかかる。アバロンはそれを何とかいなしている状況だ。アバロンの鎧の隙間からは棍棒をいなすたびに圧で血が噴き出る。アバロンは途切れ途切れの意識の中呪文を唱える、「我に力を我に決して消えることのない炎を炎炎地獄全てを焼き尽くせ!」

 

炎が洞窟の空間全体に広がる、一瞬にしてそこはまさに地獄と化した。巨人たちは逃げる術なくのたうち回り瞬く間に灰となり消え去った。アバロンは聖剣ガリガリオンを高く掲げ、この勝利に酔いしれた。その剣には炎が宿っていた。

 

 

 

 

勇者アバロンは絶対に媚びない・慈悲とは無条件であること

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僕らは立ち向かわなくてはならない。勇者アバロンはそう誓った。

 

慈悲とは無条件で許したり、頼ったりして、苦を取り除くことだが、媚びて頼ることは絶対に慈悲ではないと思う。媚びる時点で何かの縛りという苦を受けることになる、それを頼っている間続けなくてはならない、それから頼られている人は優越感を感じより相手を縛るだろう。

 

そのような頼る条件は自分を苦しめるものである。〇〇したら〇〇してもらえる。という考えは不安になる。だから勇者アバロンは決して媚びない。そして頼る条件を呑む時は強制された時ではなく、自ら決めた時だけだ。

 

つまり、慈悲とは無条件である、条件をつけた時点で苦を取り除くことができなくなるという本末転倒に陥る。僕は王様の支援金をもらい、国を救う条件も呑むが、仕えることはしない。自由に魔王を倒す。僕の渾身の一撃は自由でないと発揮されないからね。

 

それから媚びさせることに長けたクソ野郎がそこらじゅうにいることだろう。人生は苦難の連続だ、媚び続けるつもりか、お前の正義はそいつの優越感より軽いのか。僕はそんな奴は討ち滅ぼすべきだと思う。媚びる苦より頼れない苦の方が重かったとしても、媚びる苦はいずれ当たり前になってしまうから、媚びない方法を探すのが人類の幸福だと思う。

 

今日は1日魔物を蹂躙し続けた、とても疲れた。魔物とに命のやりとりで安心とか不安とか、優越感とか劣等感とかを超えた自由がこの世界にあった。とくにワイバーンは手強かって片翼を切り落としても微塵も怯まないその姿は強者そのものであった。だが最後は我が秘剣の餌食となったのだがな。わっははは

 

ワイバーンの肉はうまい、赤みが多く脂身は程よく食っただけで僕の筋肉になりそうな代物であった。僕が最強になる道はこれからだ、道半ばで強者にやられるかもしれないが、僕はやられることがあっても決して諦めない。それは僕の求める強さだ。

 

そういえばゴブリンの強さもなかなかだったな、力は人間の二分の一ほどしかないが、三匹で狡猾に襲ってきた。砂をかけ僕の目を晦まし、斧で足を潰しにきやがった。それに対して僕は防御魔法の煙幕でなんとか斧を交わすことができ、攻撃魔法火炎弾で全て始末した。

 

狡猾と強さとの違いはなんだろうか、正々堂々とか剣士に恥じないとかあるけど負けるよりは狡猾に勝つのを選ぶのが普通で生存本能だろう。でも負けても死なないのなら鍛錬と同じで強くなれるのではないだろうか。強くなるために負けてみるのも悪くないかも。