ヨーナブログ

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価値なし判定から逃げない合理性の獲得が急務である

この人間社会は価値により、需要の有無を判定していらないなら切り捨てる社会である。それは感情で言うところの不安で不幸な状況に陥るのだ。だが心配することはない、宇宙規模で考えれば人の生死にすら価値を作らない。皆が皆だだ宇宙に存在しているだけ。心配して嫌な気分になる必要はこの宇宙にはない。

 

衣食住に困ったことはないが困った時僕は何をするだろうか。働くだろうか。働かないだろうか。不幸で頭がいっぱいになってしまうだろうか。命の危機に陥ったとき僕は何をするだろうか。不幸で頭がいっぱいになるだろうか。不安に囚われるだろうか。経験してみなければわからない。

 

人は価値がないという評価を過度に嫌い、不合理な行動をとってしまう生なき物だと思う。価値がないから自分を改造したり、価値がないから何もしなかったり。そのような原始的な感情任せな不合理な行動は長期的には僕らを不幸にするだろう。

 

原始的な感情、価値があれば幸福、価値がなければ不幸、を克服して、お金の稼ぎ方や人並みの人間関係を作る合理的な努力をするべきだと思う。価値に囚われた瞬間に目先の価値を求めたり逃げたりする不合理な努力に変わってしまうと思う。それら不合理の安心は根本的な問題を解決しにくいだろう。

 

どうしたら合理的でいられるだろうか。それは決定木を使うのが有効だと思われる。

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決定木の作る方はまず行動を決め、その行動で得れる効用とその効用を得れる可能性を推測で書くのだ。そのように行動を決めれば感情に流せれて行動をやめてしまうことも少なくなると思われる。そして僕はブログを書くという結論を得た。安直だがその場その場頭で決めるよりは合理的だと思う。継続は力なり、もう感情に流されるのは懲り懲りだ。

 

感情に打ち勝つために

打ち勝つには価値のない自分自身を許すことだと思う。人には自己批判という機能が備わっている。無防備だと四六時中自己批判をするのだ。そう考えると哀れで滑稽だ。世界にひとつしかない大切な存在を許そう。遍く宇宙には価値なんか関係ないんだと励まそう。

 

許した時に本当の自分になれると思う。無理して自分を飾ったり価値がない評価から逃げたりせず、価値のない自分を許し、価値評価から自由になれたときに無邪気な僕らになれると思う。

 

え、無邪気でいられるのは子供だけだって?。そんなことはないと思う。合理的に行動できれば、無邪気に行動できれば、本当に大切なものを獲得することができると信じている。