ヨーナブログ

いろんなことを書いてます

勇者アバロン

勇者アバロンは今日も突き進む。人を許そうそしたら怒りに精神が支配されることがなくなり、気分が楽になる。そして人に頼ろうそしたら不安から解放される。断れたらさらに不安になるかもしれないが現状を変えるきっかけになる。それからそれらの小さな居場所に注目せず遍く宇宙に注目すれば精神はずっと自由に楽になれると思う。

 

アバロンは魔物を薙ぎ払い勇敢に突き進んだ。ゲル状の魔物が現れ、アバロンをその魔物を味方にして今は食器洗浄機として使っている。どんな汚れを綺麗に落とせる浄化能力を持っている。

 

価値のある人間になりたいと思う。お金を稼いだり、仲良くしたり、して価値のある人間なりたい。諦めているのか。ああ諦めた世界は都合の良いようにはできてはいない、高い価値は相応の時間が必要なのだ。適当な価値に落ち着こうとは考えないのか?100の試練を終えたら考える。

 

本当に疲れて、もう一歩も動けなくなった時は価値を作ればいい。頑張らなくていい。この足掻きは自由のためにある。その価値を望むなら本気で手に入れるのが勇者の本分である。なんにせよ諦めないのが肝心である。見切りを付けるのも大切かもしれないが勇者である以上諦めないことに意味がある。

 

無意識に勝つことを諦めていた。勝ち目はほぼないから戦おうとも思わない。これが勇者なのか。敗色濃い難敵にこそ全霊で挑まなくてはならないのこの有様だ。勇者は全てに慈悲深く全てに情熱的であるべきである。なので価値に時間を使おう、わりに合わなくてもいいそれこそが勇気だ。

 

なんで今まで諦めていることにすら気づかなかったのだろうか。それは自分の価値が自分のあり方が誰の価値にもなり得ないと半ば確信していたことにある。本当の望みはなんだ。

 

人はいつも何かに注目している。自由に注目すると不自由にも注目することになる。それにしてもなぜその望みがいまの今まで忘れ去られていたのだろうか。自己防衛だろうか。

 

認知的不協和で真の望みすら忘れてしまう。人と接しないという行動が人と仲良くなるという態度を人と仲よくならないという態度に変えてしまった。末恐ろしい話だ。自由になりたいという望みに囚われ、仲良くなるという望みは忘れ去られてしまった。

 

これは本当に気をつけなくてはならない。自分の行動の意味すら忘れかねん、認知的不協和による願望の忘却。アバロンの願望は民と仲良くなり、自由に生き、魔王を倒すことなのだ。無理を通すのが勇者の生き方だ。

カテーリナ

今日も太陽が登り世界を明るく照らす。僕たちはこのサイクルを受け入れるしかない。太陽は待ってはくれず、僕らは時が止まってくれたらと望む。指パッチンやザ・ワールドやらで時の経過をゆっくりにして世界を改変する。

 

人はタイムマシンで過去や未来にいくことを望む。この時の流れを変えたいから。川のような変わることのない時の流れで変化を望むのだろう。きっと過去や未来に行くのは楽しいと思う、新しいことだらけで物語にするにはぴったりだ。

 

ひとは賑やかな催しや上品な催しを望む。そこにいる価値に安心するからだろうか。私はそんなことを思いながら貴族のパーティーに足を運んだ。そこには煌びやかな装飾のお城に贅沢な食事があり、着飾った紳士淑女がいた。私も着飾っていたので気後れすることはない。

 

私と同じ年頃の少女が話しかけてきた。「あれみない顔ですわね、私はカテーリナ、あなたのお名前はなんですの?」

 

「私ですか、私はアンナと申します、カテーリナさんはこのパーティーを主催されたお家の方ですね」私はお辞儀をして言った。

 

諦めなけれは諦めない人生になる。そうなふうに私は這い上がった。諦めたら、そこまでだ。全ての可能性を失うことになる。淡々と諦めないことが可能性を作る。

 

残酷で可能性は微塵もないかもしれないが、挑むことに意味がある。なぜなら繰り返しが人生だからである。挑む人生に惨めな人生はつきものだ。一度きりだぜ、またとないチャンスだしもう後戻りはできない、幸不幸の先にある情熱、慈悲のある人生にしよう。

 

居場所はある。ほとんどの居場所はないが、遍く宇宙に僕らの居場所が必ずある、朽ち果てようと。居場所はあるだけいいと思う。ただ不器用でなけれはいい。

 

僕らには遍く宇宙という居場所がある、居場所がないことに不安を感じる必要なんてない。その次にすることは時間のかかる面白そうなことをするに限るのではないだろうか。今は必要ない、身勝手で、ご都合主義だろ人間関係なんて。

 

不安になんかに縛られる必要はない、最後には正しい人にいいことがあるにきまってら。なぜなら現世の不安が生命に関係することは少なく、不正をした事実は変わらないからである。立ちあがろう、しっかり向き合うことも正しさだ。何度失敗したって構わない。停滞の方が恐ろしいだろう。進み続けろどんな障害ものりこえ、君なら乗り越えられる。

 

すべてが試練で乗り越えるたび強くなる。強くなって君に会えることを楽しみにしている。

 

ブログを続けたい

こうやってブログを書いていると、続けられるか心配になる。そこでどうしたら続けてくことができるか考えていくことにした。まずは続かない原因を挙げていこう。1つは続ける目的を見失う。競争社会では目的もコロコロ変わってしまうでしょう。どりあえず原点回帰だ。

 

2つに忙しくなる。競争社会では急に忙しくなることもあるでしょう。わいは焦ってよく忙しくなる。落ち着いて焦らず行動するのが急に忙しくならないコツかもしてません。

 

3つに続けていることが嫌になる。続けていれは飽きたり、めんどくさくなってやめてしまうことあるでしょう。どうしたらそのように嫌にならないだろうか。それは自分のレベルにあった目標を作る成功体験を作る。それによう得た達成感でモチベーションを保つことができると思う。文字数や記事数に目標を作って頑張ればいいのではないかと思う。

 

4つに目的に集中できなくなる。なぜ集中できなくなるのか。それは目的が簡単すぎて意味がなくなったり、難しすぎて成功できなくなるからだと思う。だから目的を自分の実力にあったものにしていくことが重要だと思う。

 

次は続けるためのモチベーション作り。できるだけ楽しくしたり、できるだけ達成感を感じるようにしよう。それだけを考える他の懸念とか不安とかはすべて完全に無視しよう。それらに注目するだけモチベーションが下がる。何かを作るものは他人の評価を気にしてはならないのかもしれない。

 

だだ自分のためだけに目的の達成を優先する。本当に他は考えてはならない、不安も懸念も生まれないほと一切考えてはならない。考えてしまったらその瞬間にモチベーションが下がる。考えなければ目的の遂行を楽しめるかもしれないし、自由にできる。

 

やはり自由にできることが続ける秘訣かもしてない。自由なら自分らしくありのまま続けることができるだろう。自由にできることは素晴らしい。自由だと逆にやらなくなってしまわないだろうか。

 

ある程度はノルマを作った方が能率が上がるということ聞いたことがある。人は楽をする生き物だからサボってしまうのだ。

 

自由とノルマの間でどうしたら集中して続けることができるだろうか。続けるにあたって飽きないようにたくさんのバリエーションをもってノルマはしっかり守るのがいいかもしれない。

 

続けるにしたがって続ける方法も洗練されるだろう。なので続けるという強い気持ちを持って続け安くなれるのを気長に待つのも一つの策だと思う。

どうしたら文を書けるか考えてみた

文章を書く上で手に入れたいのが面白い文の書き方だ、なのでこれから面白い文の書き方を考えていこう。まず面白い文とは何か。それは意外なオチがあったり、皮肉みたいに予想と真逆の返しをするとなぜか面白い、例えば慎重に駐車する話のオチに間違えて他人の家に駐車してしまったとか、めちゃくちゃつまらない授業でとても面白かったっていうとか、である。

 

それから為になる話も面白い。好奇心を掻き立てる話に読むのを止められなくなる時もある。どうしたら為になる話を書けるだろうか。自分が読んだら為になる話を書けばとりあえず自分の為にはなる。

 

いかにして人は好奇心を掻き立てれるのだろうか。わからん、まぁいいやたくさん書けばたまに面白いことをかけるはずだ。どうしたら沢山書けるだろうか。とりあえず書いてみる、何、も考えず、だだ文章を書くという作業に集中して、淡々と書く。文字数の目標なんか作ったりして、100文字ずつ成功フィードバックを感じだりしながら黙々と書く。

 

一文字一文字の成功フィードバックを作ればモチベーションが上がりそうだ。おお今455文字だうまくいっている。的な感じで文を書いたりしてみたらいいのかもしれない。だがやはり書くことがないとなにも書けそうにない。

 

どうやって書くことをつくろうか。そういえば今日の焼き芋うまかったな。また食べたいな。焼き芋の光沢は黄金にも勝る。金の価値なんて希少で鮮やかなだけなのにさつまいもの方が安いなんてこの世界はどうかしている。

 

ある程度一つのことを深掘りして書くべきだろうか。いやなんでもいいんじゃなかろうか。思うがまま書いた方が楽しいと思うし、文を書くのを絵を描くみたく自由に書けたらきっとすごく楽しい。

 

今710文字なんだが10万字の小説を書くには途方もない時間がかかりそうだ。てか絶対にかけそうにない。物語が崩壊してしまう。大筋を作りつつ話を逸らしたり、閑話休題しながら淡々と書ける文章力が欲しい。

 

そらから単純に読みにくいと思うし、誤字脱字に関しては直す気もない有様だ。100記事書いたら何かが変わってくれることを祈るばかりである。一つ必ず変わるとがある続けることがすごく苦手なので100記事続けた場合何かを自分の意思で続ける記録を作ることができる。

 

神様、遍く宇宙でわいは今適当に文章を書いています。塵も積もれば山となる信じていますからね。千里の道も一歩からも信じていますからね。神頼みをする22歳がそこにいた。

 

 

自我が過去や他者を批判する理由は優越感を覚えるかららしい

 

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これは難題である。否定することができないので科学ではないことは確かだ。自我が無意識や他者に責任転嫁して、安心している可能性は大いにある。自己批判は今の自分を正当化するために過去の失敗を批判する。我々は過去を慈悲深く受け入れなくてはならないだろう。

 

初めに慈悲とは無条件で許したり、頼ったりすることである。条件がある時点でそれは慈悲ではなく自己の利益を得るための行動になってしまう。慈悲も本質的には自己の利益だが自分を優先するかしないかの違いである。自分を優先さえしなければ責任転嫁したり、今の自分を正当化したりはしないだろう。

 

反芻思考が今の自分を正当化するために行われていたとしたらむしろありがたい。正当化するのをやめるために、過去と世界に慈悲の心を持てば不安や後悔に煩わされることがなくなるのではないだろうか。反芻思考が惨めな自分を正当化して優越感を得る道具と仮定して、もしかしたら原始時代に惨めな自分を正当化できない人類はなんらかの理由で滅んだ可能性も否定できない。

 

惨めな自分を正当化するメリットはこのままでいいと安心できる点である。悪いのは過去の自分や環境と思いこむことによって今の自分は変わる必要なく生活できる。

 

デメリットは変われない、成長できないことである。それから過去と環境を否定して可哀想な自分状態になることである。あれメンヘラ、、、。あと今が好転しない限り今の自分を正当化し続けなくてはいけなくなりいずれ誤魔化しが効かなくなる。

 

反芻思考(不安・後悔)は生きている上で危険な時に表出する現象として、大切なのは反芻思考の捉え方ではないだろうか。慈悲深く自分の非を積極的に受け入れていくか、安心するために今の自分を正当化していくかの2択かもしれない。でも我々は反芻思考の内容に応じて多少は両者を行ったり来たりしているだろう。

 

やはり変わらなくてはいけないのは不安で怖いことだ。できることなら変わらず今ある利益を享受したいと思うはずだ。しかしそれは時として現実逃避の責任転嫁である場合があるというわけだ。そこには停滞のみが存在していて、好転しない現実のみが存在し続けることになる。

 

そんなわいらに必要な慈悲は惨めな自分を許す慈悲とか過去は同一人物でありその過ちを許す慈悲とか完璧な人間など存在しないので他者を許す慈悲とかが考えられる。とにかく人間にはたくさんのバイアスがあるバクだらけの欠陥品だから常時見直すことが必要だろう。自己を正当化していないだろうか?とか

 

慈悲とは無条件で許すことである

不安だ、これが人間の性なのか。面倒くせーどんだけ心配性なんだよ。お前はわいのなんなんだ。反芻思考やら自動思考やらという名のある物がわいにとって1番の宿敵である。そいつはなんの前触れもなくやってくる、そうわいのことが大好きなのである。

 

それは超がつくほどの心配性でことあるごとに後悔やら不安やらで安全な行動をとれせようとする。かなり無意識に従っている部分があると思うしわい自身が心配になることもある。とても煩わしいのである。

 

それは元来暇な奴が好みのようで子供には恐れられているが、ある程度理解したらそれほど怖いものではなく自由にともなくリスクみたいの物である。このような社会的性質をもつ我々が生き延びてきたのだからしょうがないリスクである。

 

それは極たまに極度の不安、パニック状態に陥ることがある。その要因は寝不足、急な不安などである。この世界の自由さを認識できればリカバリーできると思うが、誰かに頼るのが普通だろう。

 

それは常に居場所を求めている。具体的には常に安全な地位や良好な人間関係、害されない関係、誰かの役にたつこと、好かれるを方法、愛される方法を求めている。やはりそれに囚われると完全に利己的になるのでうまいそれとの付き合い方が求められる。

 

それに関わる一番の弊害は、隷属的な行動をとってしまうことだと思う。その人に従うことが安全であるという利己的な考えで驚くほど簡単に自分の尊厳を踏み躙ってしまう。この遍く宇宙でその行動が正しいことなのか今一度考えることが必要だと思われる。行動に迷ったらより大きな居場所に従った方がいいとあどらーが言っていた気がする。

 

てな感じでそれはわいの1番の親友である。切っても切り離せない関係である。赤い糸で結ばれているのである。そう生まれた時から結婚の約束をされた許嫁である。決まっている以上はどう向きあうかがとても重要である。誠心誠意わいはそれを受け入れよう。それは悪ではないただ怖くて仕方がない子供なんだ。無下にするのは良くない。思いやりを持ち、慈悲深く、不安に助けを求めるそれに優しくしようじゃないか。子供なんだから間違うことだってある、人間誰しも間違う、許す気持ちが本当に大切だと思う。許せるように工夫するのがわいの役目かもしれない。

 

慈悲とは無条件で許すことである。それを許せるようになった時が我々が本当の意味で自由になることだと思う。あらゆる柵、縛りという正義で蹂躙することなく、全てと分かち合えて時こそ、、、

 

幻想

諦められないもう引き返すこともできない。と思っている。そんな男には何もなかった、無敵なんかじゃない一番弱いのだ。守るものがないということは行動すべきことがないということだった。あるのは魂だけて実体も存在しない男はひたすら考えていた。

 

とその男に一筋の光が降り注ぐ、あなたに一つ守るべきものを与えましょう。それを守るために行動ができるでしょう。当たり前すぎて守ることを忘れてしまうかもしれません。しかしあなたならこの守るべきもの一つで十分です。

 

男は一筋の光に問う「何をない自分は何も返せない。なのでそれを受け取ることはできぬ。」男は自分の無力さを恥、再び深い思考の中に入っていった。

 

一筋の光は輝きをまし答えた。「見返りなど要りません。大切にしなくとも構いません。ただこれ貰うということはいいことばかりではありません。行動には責任が伴います。何かを壊してしまうかもしれない。それでも行動したいですか?」

 

「ほしい。行動できないのはそこらへんの石となにも変わらないことに気づいた、守るべきもののために頑張りたい、それを守ることができなくても行動に意味がある、守るという行動を解して外界と関わりたい」

 

関わる目的なんて必要ない。とにかくうまくいかない。失敗ばかりで成功は偽りに過ぎず、もはや成功なんて存在しない。世界は私利私欲で出来ていて私も私利私欲で出来ていた。繰り返す失敗の中で後悔と不安が膨らんでゆきいずれ破裂してしましそうな不安定な自我が幻想を抱かせる。

 

その幻想は私利私欲であり、私の本当の望みでないことは明白である。私は幻想を断ち切る。もう手に入れることができないからではない、到底手に入れることができないからでもない、諦めたからでもない、私が私に対する慈悲が幻想を断ち切るのだ。

 

後悔するかもしれない、惨めな思いをするかもしれないそれでもこの世界で私が私を助けるとはこういうことなのだと思う。幻想を断ち切り今を生きるそれが守るということだ。

 

日々の今という中に自分らしさを付け足してゆく。少しずつ少しずつ増えてゆく年月と共に私が本当にすべきことを見失わないように、できる私にできない私が提案できる慈悲が、幻想を断ち切ることである。

 

でもこの世界は自由だ、決めるのは今の自分だ。でも忘れないでほしい、これまでの経験を。私が私である今この瞬間の行動で一瞬の煌めきを得る対価は価値ややりがいなどの様々な基準のなかで粘り強く決めるほうが良さそうだ。