ヨーナブログ

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命令には従わないでくれ頼む

孤独は時として強い不安を感じでしまうが、自由に振る舞うことができるタイミングたと思う。何を考えても、何をしても他人の目を気にする必要がない。なぜ他人の目がそんなに気になるのだろうか。

 

それは自分の身嗜みとかが他人の評価に関わってしまうからとかがあると思う。でもそういう考えは慈悲深くない。だから自分の身嗜みは自分の好きなように決めよう。他人に指摘されようが無視を決め込もう。不愉快なのは他人であって自分ではないのだから。

 

とはいえ身嗜みを指摘されることは不愉快な場合と有難い場合がある。知ってて指摘される場合は知ってんだよとなるし明らかに言い分が相手の都合だと、お、おうってなる。その点その行動の意図をしり慈悲が見返りのためかを把握する必要がある。

 

孤独は不安で将来の安心というものは何もないが自由で可能性を秘めている。社会的な評価を得ることができないものにとっては孤独は搾取されないために必要な手段であると思われる、その点自由とはつまり虐げられない行動である。

 

自由とはどうしたら手に得れられることができるだろうか、それは他人の目を気にしないことだろう。どんな非難にも挫けず、虐げられることのない世界を実現するために行動することだろう。

 

でも現実はそう簡単にいかない。まずは子を虐げない、自他の利益の区別がはっきりついた親を引き当てないと自己批判、隷属人生が待っていることだろう。でも悲観することはない。この宇宙に変えられないことはない。

 

自己批判をなくすにはどうした良いだろう。それは他人の命令に絶対に従わないことだ。命令に従うと相手は付け上がる。残念なことに世界は相手をナメるという行動で蔓延っている。少し強さを誇示したらそういうナメてくる人はいなくなると思う。なのでそういう人の命令には従わず毅然とした態度で接するのが正解でとわいは考える。人をナメる人の神経は理解できないが多分、人を虐げて安心できる地位にいたいだけだとわいは思う。

 

だからそんな人の言うことを自分に害がなかろうが聞かない方が正解なのではなかろうか。平等に分かち合えた時に友好的な人間関係を手に入れることができるはずである。上下の関係はたとえそれが親子の関係であれあってはならないものであるとわいは思う。

 

たとえそれで居場所がなくなろうが上下関係の居場所などこれからのわいには必要ないと思う。対等な人として人間関係を作るそれが正義である。まぁ戦争なんかがあるこの世界では理想論でしかないだろう。