ヨーナブログ

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慈悲とは無条件で頼ることである

慈悲とは無条件に頼ることだと思う。最近生活保護を受けるなら餓死した方がマシだという声を耳にするがそれは自分に対する慈悲が足りてないと思う。その受け取らない気持ちは理解できるがやはり根本から間違っていると思う。

 

そもそものプライドというものについて考える。多分それは自分を価値のある人間したいという生存本能だと思う。昔原始時代は協力しないと生きていけない、自分の立場が危うくなれば食いっぱぐれる心配も生まれる、そこに生まれた意地がプライドの正体でしょう。

 

だから居場所を得るためにプライドを選ぶのは間違っていると思う。そして大切なのはこれから何をするかだと思う。うまく生活できなかったこれまでを受け入れうまく生活できるこれからを作っていけば良いのではないでしょうか。

 

なので慈悲とは無条件で頼ることだとわいは考える。要は慈悲とは対象に居場所がない状況において、対象の不完全さ弱さを受け入れて対象の利益になることを無条件ですることだと思う。

 

どうした慈悲深い人間になれるだろうか。とりあえずは自分に慈悲の心を向けてみよう。初めに自分は完璧ではないことを自覚して慈悲が必要なことを認識する。そしてその不完全である苦しみに無条件の救いを与える。

 

例えば原始時代に獲物を取れず餓死寸前のわいがいたとしよう。そして隣人Aは獲物を捉えることに成功していたので、わいはプライドを捨て獲物を分けてくれるよう懇願した。残念なことに隣人Aも餓死寸前だったので断られてしまった。なので隣人Bにも懇願して、幸いなことに分けてもらうことに成功して一命を取り留めることに成功する。

 

というような憐れみ、情け、同情によって行われる行動が慈悲で人間ができる行動のなかで最も美しい行動だと思う。だから割と多くの方が慈悲深いと思う。なのでいざとなったら頼ろうそれしかない。その後自分に余裕が生まれたらその埋め合わせをすれば良いのではないでしょうか。

 

借りは作らず無償で頼ることに意味があると思う。無償だから美しいのだ。残念ながらわいは自分にも慈悲の心を向けられない人間だがいずれは慈悲の心を全てに向けてバランスよく救えることができたら良いなと思っている。

 

慈悲を向ける具体的な方法は、1に見返りを求めない、2に苦しみから救う、3に見返りを求めない。この世界は比較的自由だから極論誰にをなんの責任もない。だから慈悲のない人もいるし、慈悲を他人にだけ向けて辛そうな人もいる、なんにせよバランスよく慈悲を持つことが幸せにつながると思う。