ヨーナブログ

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認知的不協和について・間違った選択をしないためには

認知的不協和は自ら自分を騙してしまう恐ろしい認知だ。イソップ寓話にある酸っぱい葡萄が認知的不協和の有名な例で、狐が取れなかった葡萄がある。取れないという事実が葡萄が欲しい態度から葡萄は酸っぱいに違いないという態度に変えてしまったのだ。

 

フェスティンガーの実験というのがある、まず単調な作業をしてもらい、報酬が割りにあった区分と割りに合わない区分に分ける。その後両者に次作業する人に作業の楽しさを伝えてもらったところ、報酬が割りな合わない区分が楽しさの度合いが強かったのだ。

 

報酬が割に合わないという事実が作業はつまらない態度から作業は楽しいという態度に変えてしまったと思われる。つまり低い報酬とつまらない作業の間で不協和が生まれ、低い報酬という事実は変えにくいのでつまらない作業を楽しい作業と思い込んだのだ。

 

どうしたら認知的不協和を回避して正しい認知を獲得することができるだろうか。

 

そもそも認知的不協和は自己防衛本能で良好な精神を保つために必要な認知で騙されている間は騙されてて良いと思う。いつまでも取れない葡萄を取ろうとするより自分を騙して見切りをつけた方が幸せになれるかもしれない。

 

でも諦めないで葡萄を取れた時には酸っぱいかもしれないが甘いかもしれない葡萄をたべれるのも事実だろう。

 

つまらない作業と低い報酬の認知的不協和については低い報酬で働いてしまった自分を正当化するために作業が楽しいかもと錯覚してしまったがやってしまったことは変えられないので次に人に作業は楽しいかもと半ば嘘をついてしまったとしてもそこのは悪意はなく、次の人が損を被ることになったとしても認知の歪み原因なのでまぁ大抵は許されるだろう。

 

どうしたらそのような認知の歪みをなくすことができるだろうか。いや無理だ。無くすことはできない。当事者は認知の歪みを認識できないから歪むのであるから。だから大切なのは歪みに気づくことだと思う。

 

どうしたら認知の歪みに気づくことができるだろうか。すっぱ葡萄を実際に食った時、割にあった報酬で作業した時、詰まる所事実を経験することにより事実(正しい認知)を知ることができるだろう。

 

よって事実を経験できない時は認知的不協和に甘んじで事実を経験した時に正しい認知で正しいことをすれはあまり間違えずに済むのではないでしょうか。これができるだけ間違えたくないわいにとっての妥協点であり、より良い方法が思い浮かばないからこんな選択をしているのかもしれない。