ヨーナブログ

いろんなことを書いてます

不安の取り除き方

注目がやばい。注目のコントロールが効かない。なぜ注目のコントロールが効かないのか考察してみた。

居場所がなくなる行動をしたから

人は社会的な生き物で居場所の有無は昔は生死に直結したから注目してしまう。これに対する打開案としては最悪な結果を想定して行動する。最悪の結果がわかると安心する。多分漠然とした不安はどこから弓が飛んでくるか分からない状態で、わかっている不安はわかっている場所から弓が飛んでくる感じだと思う。

 

ということなんで、このブログを書くにあたっての最悪な結果を思いつくかぎる考えてみる。1親にばれて家を追い出される、2なんらかの形で消せない黒歴史になる、3軽蔑され誰からも愛されなくなる、てな感じでどれも利益追求かつ愛され欲求で不甲斐ないかぎるである。

 

どうしたら最悪な結果が最悪でなくなるか

最悪な結果の最悪な結果を想定する。1はホームレスとなり生活する、2はそういう人間だと理解されるだけ、3は人は変われるし誰からも愛されなくなる訳がない誰からも愛される訳がないように。

最悪なのは居場所に囚われたいるからだ。だが人間はこういうネガティブな思考をするようにできているから唯一正規の方法は居場所を作り安心することだと思う。でも紆余曲折あって居場所を作れない人がいると思うので一人で解決する方法を考えていく。

 

阿字観瞑想

阿字観とは自分サイズの丸い玉を徐々に大きくしていき宇宙規模まで様様な物体と比較して、それから自分サイズに丸い玉を小さくする瞑想である。それにより取るに足らない居場所に囚われず、宇宙規模の自由と理性を得れると思う。

この瞑想は人間の本質を理解している素晴らしい瞑想だと思う。こんなに不安を取り除いてくれる瞑想はないと思われるから試してみる価値は大いにあると思う。

 

とにかく人は集団を形成する社会的な生き物である。国、社会、会社、家族などがある、その中で人々は日々価値のある人間になろうと努力し競争している。その競争からあぶれた人は肩身が狭くなるだろう。そこでこの瞑想はその苦しさから解放してくれる。宇宙という圧倒的な自由がここにいてもいいという証明になる。

 

誰かに迷惑を掛けようが宇宙はただ平等にそこに存在する。有能も無能も関係ない、エリートもホームレスもその他全員も宇宙ではなんの意味もなさない。ただあるのはどう生きるかであり、他者の排斥行動は自分の価値を否定するものではなく、その人のエゴにすぎない。

ありのままより理想の自分の方が楽かもしれない件

心理学では生まれた時、子供は一人では生きていけないので愛される術を学ぶらしい。それは愛着になり、不安型、回避型、安定型などに分類されると考えられる。不安も回避も親の愛情不足が招くと考えられるから子供を作る時は愛情もって不安にさせたり気を使わせたりしないよう心がけたい。まぁ自分の人生に子供を作る余裕などないが、、、。

 

愛着の型は時が進むに連れて変わるのでまぁ安心してもらって大丈夫。どう変わるか分からないが愛されたい対象が変わることにより愛される術を変わるのかもしれない。もしくは愛される必要がなくなりありのままの愛情表現をするようになり変わるのかもしれない。

 

つまり僕が言いたいのは子供の頃の自分はありのままの自分ではないのでは?、という問題提起である。親に頼り親に愛される必要がある間は本当の自分ではなく親に愛されやすい自分かもしれない。

 

そこで本当の自分になるために親に愛されやすい自分の完全に消す方法を考えていきたい。まずはなぜ本当の自分になりたいかは、それは親に頼っている罪悪感が親に愛されないといけないという安易な答えをだすのを防ぎそしておやに見限られた時、合理的に清々しい思いで自立できるようにするためである。

 

本当の自分とは、博愛主義である、誰も傷つけたくなく、故に誰とも接したくない。そして他人を害する人を忌避してしまう。しかしお金を稼がないといけないからお金を稼ぎうる行動をしている。知るうる限りで合理的で非合理的な行動はあまりしない。

 

つまり本当の自分とは、適度に感謝しつつ、他者を害してたり害されたら忌避しつつ、合理的に利益を享受する。今との違いはもう少し忌避するという利益より感情を優先する態度。

 

そもそも博愛主義が合理的でない。すべての人を愛するのは不可能である、責任も配慮も尊敬もできるはずがない。自分にすらできないのに。なので目指すは本当の自分てはなく、個人を愛せる理想の自分である。

 

故に理想の自分と親に愛されやすい自分との違いは、博愛主義か個人愛かである。

 

どうしたら博愛主義から個人愛主義になれるだろうか。それはすべての場面で最低限の道徳で愛すべき人を優先する。

 

今回の思考でありのままが合理的ではないということがわかった。ありのままは楽な自分ではなく過去の経験などによって形成された受動的な心の反応であると思われる。よって我々はありのままを脱してより合理的な自分を形成していくべきであると思われる。

 

 

 

 

だからこそ情熱的でありたい

なぜか情熱がない。なんでだろう。音楽でも聞いたら情熱が出るかな。情熱ってドーパミンがかな。確かドーパミンの出し方は音楽と運動とカフェインとかだったな。でも運動は面倒だからやりたくないな。腕立てぐらいならできるか。

 

なんかもう、もうちょっと成功を強く望みたい、アニメの主人公みたいにここぞとばかりの力を発揮したい。しかしそうはいかない大きすぎる目標はやる気を著しく削いでしまう。なぜやる気を削がれてしまうのだろうか。やっても無駄だという理性が働いてしまうのかもしれない。自分の場合はよくわからない、とにかく何もやらない自分に腹を立てていた。その点で乗り越えられないストレスが原因かもしれない。

 

これは仮説だが原始時代のクマやライオンなどの絶対に勝てないと思う相手と対峙した時のなごりかもしれない。そう考えたらやっても無駄なのはあながち間違いじゃないと思われる。でも男なら引けない戦いがそこにあると思う。そういういざという時、原始人は何を秤に掛けていたのだろう。一つに家族を守るためはあるだろう。もう一つは圧倒的な飢もあるだろう。あとは文字通り背水の陣が考えられる。

 

その三つを踏まえ情熱の出し方を考えてみる。ああダメだ、どの場合も逃げ道がある、よりいいと思われる道があって情熱を発揮できない。一歩話を戻そう。

 

原始人は命の危機を感じていたと仮説して、現代人は何を感じるのだろうか。居場所がないとかお金を稼げないとかを感じるだろうと思う。つまり命も居場所もお金もいらないと思えたとき人は非合理的な行動ができるのかもしれない。もはやその無鉄砲さこそ情熱かもしれない。

 

情熱的であるメリットは挑戦することにスリルがあって楽しい、クソみたいなつまらない人生に絶望と希望を提供してくれる、もしうまくいったら理想になれる、がある。敗色濃いからこそ情熱でありその分絶望すること請け合いである。

 

逆にデメリットはかなりの確率で失敗する、無駄にリスクを取る、かなりの確率でやる気がなくなる、歳ととるにつれて社会が情熱を排斥する、がある。多分ほとんどの人が通らない道である。むしろ道がないまでありうる。

 

情熱的人生の失敗に失敗を重ねた世界線を考える。家族に軽蔑され家を追い出される。ホームレスになりながら思考したり、土に文字を書く。そして餓死したりするかもしれない。もちろん誰からも愛されない。スマホがなく音楽を聞けなくなる、寒くて暑い、存在自体が迷惑になる。