ヨーナブログ

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自我が過去や他者を批判する理由は優越感を覚えるかららしい

 

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これは難題である。否定することができないので科学ではないことは確かだ。自我が無意識や他者に責任転嫁して、安心している可能性は大いにある。自己批判は今の自分を正当化するために過去の失敗を批判する。我々は過去を慈悲深く受け入れなくてはならないだろう。

 

初めに慈悲とは無条件で許したり、頼ったりすることである。条件がある時点でそれは慈悲ではなく自己の利益を得るための行動になってしまう。慈悲も本質的には自己の利益だが自分を優先するかしないかの違いである。自分を優先さえしなければ責任転嫁したり、今の自分を正当化したりはしないだろう。

 

反芻思考が今の自分を正当化するために行われていたとしたらむしろありがたい。正当化するのをやめるために、過去と世界に慈悲の心を持てば不安や後悔に煩わされることがなくなるのではないだろうか。反芻思考が惨めな自分を正当化して優越感を得る道具と仮定して、もしかしたら原始時代に惨めな自分を正当化できない人類はなんらかの理由で滅んだ可能性も否定できない。

 

惨めな自分を正当化するメリットはこのままでいいと安心できる点である。悪いのは過去の自分や環境と思いこむことによって今の自分は変わる必要なく生活できる。

 

デメリットは変われない、成長できないことである。それから過去と環境を否定して可哀想な自分状態になることである。あれメンヘラ、、、。あと今が好転しない限り今の自分を正当化し続けなくてはいけなくなりいずれ誤魔化しが効かなくなる。

 

反芻思考(不安・後悔)は生きている上で危険な時に表出する現象として、大切なのは反芻思考の捉え方ではないだろうか。慈悲深く自分の非を積極的に受け入れていくか、安心するために今の自分を正当化していくかの2択かもしれない。でも我々は反芻思考の内容に応じて多少は両者を行ったり来たりしているだろう。

 

やはり変わらなくてはいけないのは不安で怖いことだ。できることなら変わらず今ある利益を享受したいと思うはずだ。しかしそれは時として現実逃避の責任転嫁である場合があるというわけだ。そこには停滞のみが存在していて、好転しない現実のみが存在し続けることになる。

 

そんなわいらに必要な慈悲は惨めな自分を許す慈悲とか過去は同一人物でありその過ちを許す慈悲とか完璧な人間など存在しないので他者を許す慈悲とかが考えられる。とにかく人間にはたくさんのバイアスがあるバクだらけの欠陥品だから常時見直すことが必要だろう。自己を正当化していないだろうか?とか